1 隼人塚(はやとづか) 令和元年11月21日
隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)に九州南部に住む隼人がヤマト政権に対して起こした反乱で、1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結した。政権軍は100人もの隼人の首を、政権軍の拠点であった豊前国に持ち帰ったという。その霊を弔うため、現在の大分県宇佐市に凶首塚(きょうしゅづか)、百体神社(ひゃくたいじんじゃ)が建てられている。
また、反乱が起きた際、朝廷軍と共に八幡神が鎮圧して以降宇佐に疫病や凶作などが続き、隼人の霊の祟りだと信じられていた。その霊を慰めるために仏教の殺生戒に基づいて生き物(蜷貝)を放って供養する放生会(ほうじょうえ)がはじまり、全国各地に広まったと言われている。
隼人塚は、反乱が側の戦死者の霊を弔うため戦場近くに建てられたものとして、大正10年3月、国の史跡に指定されている。
なお、近年の遺跡調査の結果、隼人塚(石造り五重塔3基と石造り四天王像)は平安時代のもので、鹿児島神宮の神宮寺である正国寺(しょうこくじ)の仏教遺跡とされている。
所在地は、霧島市隼人町内山田。
宇佐神宮で始められた放生会が、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)でも行なわれるようになった。放生会の神輿(みこし)が浜に下る途中、供養の儀式を執り行う場所が隼人塚です。昭和9年で途絶えてしまった放生会が65年ぶりに復活したそうです。やはり、戦で亡くなった隼人の霊を鎮魂する遺跡なのですね。
石造り五重塔3基と石造り四天王像
平成10年度に五重塔3基が、平成11年度に四天王像が復元された。
前が「持国天(じこくてん)」、後ろが「多聞天(たもんてん)」。
この隼人塚の四天王を「持国天(じこくてん)」、「多聞天(たもんてん)」、「増長天(ぞうちょうてん)」、「広目天(こうもくてん)」と呼んでいいものかためらう。この四天王は、構成及び各像の形態が類例を見ないものだそうです。中国の南宋の影響を受けているらしい。
前が「増長天(ぞうちょうてん)」?、後ろが「広目天(こうもくてん)」?。
与謝野晶子の歌碑
「隼人塚 夕立はやく御空より 馳せくだる日に 見るべきものぞ」
隼人塚を見て、心の底から激しい悲しみが沸き起こったようですね。この雨が慈雨にならんことを祈りましょう。
隼人塚史跡館
史跡館は、国指定史跡「隼人塚」の歴史や由来を紹介するためのガイダンス施設で、
石像の修復状況や隼人塚の発掘状況を紹介する写真パネル、平安時代に作られた石仏などが展示されている。
隼人の軍人?がお出迎え 四天王像のようです。
鹿児島神宮四天王石像
無残な光景。廃仏毀釈を最も徹底したのが鹿児島で、寺院・仏像のほとんどが打ち壊された。明治維新の悲しい、負の遺産と言える。歴史、文化は後世に正しく伝えるのが、この世に生を受けた者の責務なのだが。
正国寺跡 石仏
これら仏像は、正国寺(しょうこくじ)の跡地にあったもの。正国寺は、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)の神宮寺。 如来形坐像(中)と菩薩形立像(左)は、康治元年(1142年)の製作年が彫られており、平安時代のものであることが分かる。
奈良市の平城宮跡から出土した盾のレプリカ。
2 弥五郎どん 令和元年11月18日
弥五郎どん(やごろうどん)または大人弥五郎(おおひとやごろう)とは大隅、日向に伝わる伝説の巨人です。弥五郎どんは、隼人の乱が起きた時の隼人族の首長であったとか、大和朝廷側の大臣である武内宿禰(たけのうちしゅくね)であったとも言われている。
大隅、日向の神社において行われる五穀豊穣を祈願する祭りの行列の中、弥五郎どんは身長約5mの風貌猛々しい姿で、神幸の先駆露払いをする。また、これらの祭りの起源は放生会と言われている。
「弥五郎どん」
鹿児島県曽於市大隅町の道の駅「おおすみ弥五郎伝説の里」の丘に建っている。
身長15メートル、重量39トンの銅像
「弥五郎まつり館」に展示されている実物大レプリカ 身長4.85m
道の駅「おおすみ弥五郎伝説の里」
20ヘクタールの広大な敷地に町民の憩いの広場、入浴施設がある「健康ふれあい館」、実物大の弥五郎どんが展示された「弥五郎まつり館」など整備されている。
曽於市(そおし)の特産品 肉(牛、豚、鶏)と新鮮な野菜
以上、九州の旅(27)史跡②隼人塚。